勤労乙女
社会の荒野を走り出し、一週間勤めた感想の実務編は割愛する。何しろまだろくな任務を与えられていないので語るに値することは何もしていない。実務以外では、バス通勤に際して定期券を鞄から便利に出し入れするためのパスケースが欲しいのう、と思った。これはぜひとも週末に出かけて買わねば。ここはひとつカワイイものを購入して、バスに乗った瞬間からテンション高く荒野を走る、デキる勤労者たらねばならない、と金曜の夜にそんなことを考えていた。しかし。
パスケース。市内に電車が通っていないこの町ではさぞかし需要がないのであろう、売っているものが少なくって、あんまりかわいくない。絶妙に趣味のものがない。長く使うものを買うなら「超絶気に入った! これがいい!」という出会いをしたいという面倒くさい性格が邪魔をして、結局買えなかった。無念。こうなるとamazonで選ぶとなろう。
雑貨屋巡りをしていたとき、多くのお店で「母の日フェア」と称してコーナーを設えているのを見た。だいたいが、エプロンやミトンの可愛いのなど、キッチン用品であった。台所に立つ多くの母君へ、需要があるのであろう。
働く母君へ贈る品の需要はないのだろうか。資本主義経済のなかで市場規模はまだ小さかろうか。働く御母堂へ贈る品としてパスケースや化粧ポーチや可愛いオフィス用品のコーナーがあってもいいのではないだろうか、と、買えないパスケースが欲しいだけの頭で若輩者は考えていた。
桜流し
咲いたばかりの花を散らす春の雨を桜流しという。
兼六園前、広坂の桜は、薄い白の花びらが重なって春の色を作っている。地面は濡れているが、まだ花は流れていない。良かった。バスの中から、ライトに照らされてもいない寡黙な夜桜を想像力で補って観賞する。
この町の空は天井が低く、雲と霞の境がない。高い湿度もむしろ息苦しくて、狭い水槽のなかで空気を探してぬるい真水を泳ぐように息も絶え絶えである。
春の夜の雨ってこんなに重かったっけ?
去年の春はまだギリギリ京都にいたので、冷泉通や葵橋の桜を眺められた。雨の夜にも空気の軽さに春を思えた。
京都にお越しの御仁にはぜひ、金閣や清水寺なんていう人混みの凄いところは避けていただいて、鴨川や高野川の河川敷の桜を楽しんでほしい。
金沢へお越しの御仁は、無料開放期の兼六園をどうぞ。
『マゾヒズム小説集』
十八歳の本棚
実家の自室の本棚が、十八歳のまま時を止めていた。
やがて生まれてきて四半世紀になんなんとする女の本棚に、数学ⅡBやら赤本やら英作文の極意みたいな参考書が並んでいるのはいかにもまずい。ただの片付け下手の面倒くさがりと過去の栄光を並べてはばからないタイプとは紙一重と思われた。
実家の自室の本棚は十八歳のままとして、十八から十九になるときに住んでいた京都の下宿は、可処分空間を圧迫してはばからない大きな本棚とその他家具が備え付けられた六畳だった。その部屋に一年住み、本棚には大学で買った教科書と数冊しか買わなかった新刊が並ぶ。
その後引っ越して三年二か月住んだ部屋では、リサイクルショップで見繕ったカラーボックスを本棚にして、古本屋で買い集めた本が詰め込まれた。ほしい本が少し安く買えるというだけで、古本が好きになっていた。図書館好きの高校生であったがこの二回の頃から本の所有欲に目覚め始めた。
郷里に戻って十八歳の本棚に直面し、面倒くさがって放置したのち、先日ようやく意を決して二十三歳の本棚に作り変えた。この五年間で買い集めた古本、新刊、教科書、最近増えた新しい本や画集も並ぶ。楽しい作業であった。
マイブームの森見登美彦著作とお気に入りの村上春樹著作が目の高さの棚に並ぶ。その下の段に、いつか読もうと思って買った漱石と、ブックオフで見つけた谷崎潤一郎のマゾヒズム小説集なるもの、向田邦子、昔ハマった万城目学、太宰、膝を打った新書、映画から入った海外小説など。積ん読もいつかは読むのでしれっと配する。配架という作業は楽しい。
全面に森見登美彦を目立たせたせいで父上からは「さては社会に出たくない感じ?」とやすやすと正鵠を射られた。父上、ご明察の通り。あなたの娘は留年して泣きべそをかいていたこともあるくらい、社会に適応できるか怪しい子です。でも頑張ります。どうか温く見守っていただきたい。
初心運転者の掟
普通車を運転する免許を取得してまだ半年余りの初心運転者だけど、一人で運転するのはあんまり苦手じゃない。緊張感はあるけど不安度は少ない。駐車も意外と得意。とはいえ、泣きながら保険屋さんに電話をかける目には遭いたくないから、安全運転は充分に心掛けている。安全運転の後は「今日も無事故で良かったありがとさま」と初心運転者の神様に心の中で手を合わせる。
暇な平日なので、税務署へ行って用事を済ませてきた。今後の人生平日にぐうたら暇してることもなくなるかと思うと居ても立っても居られない。今しか、アルバイト代から徴収された所得税を返してもらう暇はないのだ。
税務署のお姉さんは、こちらが拍子抜けするくらい手際良く手続きを進めてくれて、私の微々たる所得税が還付される手筈を整えてくれた。有り難や。
暇が余ったので駅ビルや本屋を巡業のようにまわる。しかし今は時々なる「ほしいものが売ってない病」に罹っている周期らしく、何を見てもピンとこなくて、買えない。必要なものはたくさんある筈なのになあと思う。本屋ですら、買おうと思っていた本がたまたま置いてなくて落涙しかけた。買い物が消化不良だと悲しいなあ。
レンタルCDショップでお茶を濁すかのように何枚かを借りて、今日の経済活動が終了した。
東京紀行 三、代官山の蔦屋書店
今住んでいる町では欲しい本が近場の本屋に売っていないという悲しみに暮れることが多々ある。家の最寄りの書店は腹立たしいほどに売り方が下手なので、なおのことよくある。なんで『とと姉ちゃん』放送してる時に『暮しの手帖』コーナー作らへんの、みたいな感じで。
ここで「欲しい本が明確に決まっているならAmazonで買えばいいじゃない。配送してくれるしポイントも付くで」という正論は野暮である。それくらい私だって知っている。何かこう、欲しいもの(きゅんとくるもの、かわいいもの、手に取ってじっくりと吟味したいもの)が店頭に売ってないという状況そのものに田舎っぽさを感じて悲しくなるという感覚の話をしている。
寒い雨の降る中でメトロを乗り継いで赴いた、噂に聞く代官山の蔦屋書店は立派であった。物量で視野をガンと殴られて購買意欲が燃焼し、それでもきっと手に取ることもないであろうありとあらゆる本のことを思うと泣きそうになった。結果、欲しかった本を中心に「何も旅先でこんなに重たい本を買うことは流石に阿呆じゃないの、」と呆れられて致し方ない買い物をしてしまった。欲しかった画集、綺麗な色見本、見たこともない可愛いアンソロジーの冊子、など。
それと、村上春樹の翻訳コーナー、『暮しの手帖』と花森安治や松浦弥太郎の本のコーナー、国立新美術館でやってるミュシャ展に関する書籍コーナー等、売り方が上手であって感動した。じゃんじゃんお金使いたくなる。贅沢は味方。経済を回すのは正義。久しぶりに本屋でわくわくした。
昔、家の最寄りの大型書店が開店したての頃は、私は確か十歳だった。あの時は大型書店というだけで物珍しくてとても好きだったけど、大人になると本屋にも違いがあることを学んで、もう好きではなくなってしまったのが少しだけ寂しい。
例えば代官山の蔦屋書店はとても好きになってしまったし、京都の恵文社も好きだし、新品が安く買える大学の生協書店も、掘り出し物が安く買えるブックオフも好きだ。
それらに比べて好きになる要素がない本屋を好きになれないのは仕方ない。
ついでに言えば香林坊と片町にあんな中途半端な東急ハンズとLOFTを金沢初出店させるくらいならブックオフにしてほしかった。
最後に代官山の蔦屋書店の二階のカフェで食べた、海老と茸のドリアのセットの写真をあげる。これがまたとても美味しかった。
東京紀行 一、TDL
3/17、およそ十年振りに東京ディズニーランドに行ってきた。十余年の間に私の知っているTDLではなくなっていた感がある。「制服ディズニー」とか「双子コーデ」とか、知らない世界が始まってた。
アナと雪の女王フローズンショウの最終日だったので人が多かった気がする。ディズニーに詳しい友人曰く、シーの方も大事なショウの最終日だったのでより激混みだったとか。
フローズンショウはプロジェクションマッピングで、特徴のある建物に映えてとても面白いと思った。映画、なかなか面白かったのを思い出した。
ともあれ、座り込んで場所取りとかしてたら尻が冷えたし、三月の東京は意外と寒くて着ていくコートを間違えた。スプリングコートはまだ早かった。
ちなみにこの「着ていくコートを間違えた感」はこの後五日間ずっと続く。
殆ど衝動買い
読むものがなくて、まとめサイトの巡回にも飽きて、本屋へ走った。気に入ったものなら同じ本を繰り返し読むのも全く厭わないけども今日は気分が違った。
最寄りの本屋で、平積みされている『騎士団長殺し』をじっと見つめたあげく、まだ買わない。村上春樹好きとして時が満ちるのを待っている。つまり今は気分が乗る頃合いじゃない。
無駄遣いしたい気分とアンケートで貰った図書カードがあったので、使い尽くしてまとめ買いをしてしまった。
マイブームの森見登美彦をやはり選ぶ。「いい加減に同じ作者の本ばかり買い集めるのはやめなさい」と諭されそうだけど、十余冊の著作なら集めてしまいたいと思ったので結局買う。古本でもよいのだけど、近所に古本屋がないのが悪い。
宮沢賢治と漱石の方は、表紙がかわいかったのでまんまと買ってしまった。読んだことがあるようでない。四回生のとき漱石の後期三部作のどれかを読んでいたのをお気に入りのブックカバーごと講義室で失くして見つからなかった哀しみを思い出す。悲しがって漱石から遠ざかっていたのが勿体無い。
集めた本が本棚に入りきらないが、これは本棚の使い方が下手だからだと思う。一等使いやすい高さの段に高校の頃の参考書が並んでるのは流石にまずい。二十余歳の女の本棚にしては頭が悪い配架だ。片付けなくてはいけない…。